明治の三面記事―8 



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(18)全文片仮名の判決文    明治2年
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明治維新政府ができて、いろいろと制度も変わり、ほとんど毎日のようにお達しやらお触れの出るのはいいが、それが、みな難しい漢文であった。
 
たとえば,
「第二百七十三號正院布告、犯姦條例左之通定創候條、此旨布告候事。凡妻妾を慫慂(しょうよう)して人と通姦せしむる者は、本夫姦夫、姦婦各懲役一年。因て財を圖(はか)る者は枉法(おうほう)に准じ重きに従て論ず」
 
といった調子であった。
 

慶応4年(1868年)5月の都鄙(とい)新聞2号にも次のように書かれている。
「フランス人の話の訳文が大阪から届いたので、その抜き書きを紹介すると、このごろ大政一新した日本帝国の布令の多くは、支那の語を使うために民間で読む者ははなはだ少なく、読んでその意味のわからないものが十人に八、九人もいると言う」
 
という内容である。
したがって、当時の通達はすべて横町のご隠居を通してでないと長屋の八っつぁん、熊さんにはわからなかった、と思われる。そのうち、これではいけないという声が強くなる。
 
 

明治2年(1877)4月の議案録を見ると、

「民間へ出づる布告の書面に、民衆の読みがたき文字の多きは、禁令のすみやかに行わるるをさまたぐるに足る。なるべくかなを用い、やむことをえずして字を用いるときは、傍訓をほどこすべし」
 
とあり、国民への知らせはやさしい文章とやさしい文字で、ということになった。
 
さ~て、そうなると、今度はその反動のようなものが起きる。
 

明治6年8月29日の郵便報知新聞に載っている話。

裁判の判決文を被告にわかりやすいようにと、全文を片カナで書いたものが現れた。しかし、これもまた、かえって読みにくいものである。
 

「トウキヤウ ダイイチダイク ハチシヤウク ミナミコンヤチヤウウマレ トウジヤドナシ ヘイキチ ソノホウギ ヌスミイタシ ロクヂウタタカレ ソノノチ フタタビヌスミイタシ トラワレルセツ ヤマヒモチユエ キンゴク三十ニチニシヨセラレルミブンニテ ナホマタ オウカンニオイテ オウライニンノフトコロノキンセンヌキトル ゾウキンイチエンヨノトガ セツトウリツニヨリ チヤウエキ七十ニチモウシツケル」

東京第一大区八小区南紺屋町生れ 当時宿なし平吉 その方儀 盗みいたし六十たたかれ その後再び盗みいたし捕われる節 病持ちゆえ禁獄三十日に処せられる身分にて なおまた往還において往来人の懐の金銭抜きとる 蔵金一円余の科 窃盗律により懲役七十日申しつける



 

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(17)かなばかりの文章に反論   明治16年
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漢字というのは、もともと日本の国字ではない。日本の文章はすべてかなで書くべきだという趣旨により、明治16年(1883)10月に有栖川三品親王を会長とする「かなのかい」というのができた。
 
しかし、もしこの事が実現したら困りはしないか?つまり、次のような文章の場合全文をかな書きにしたら、読む人は何がなんだかわからなくなりはしないかという、イジワル反論を

明治16年10月31日の東京日日新聞が紹介している


「神谷左衛門という大名、出入りの紙屋佐右衛門を招して、左衛門が家の藩士には素性悪しきもの多く、上の用をなさぬが多し、これには毎々予も困ることありと申さる。
佐右衛門恐れ入りて、佐右衛門が家の半紙に素性悪しきもの多く、紙の用をなさぬが多しとは無念のいたり。以後はきっと心づけ申すべしという。
 
左衛門おかしく、いやわがいう藩士は藩士なり、その方の言う半紙にあらず。
上の用とは上の用なり、紙の用のことにあらずと申されければ、佐右衛門始めて安心し御前をしりぞきたりという」

 
[本社資料写真]目で見る読売の歴史。創刊当時の読売新聞社(日就社)明治時代。東京・芝虎の門で。本社記録。資料写真。複写。1963年1月

[本社資料写真]目で見る読売の歴史。創刊当時の読売新聞社(日就社)明治時代。東京・芝虎の門で。本社記録。資料写真。複写。1963年1月

[su_quote cite=”読売新聞” url=”https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/ayumi/index.html”]引用[/su_quote]


 

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引用した主な新聞解説

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大阪朝日新聞=明治12年(1879)1月、朝日新聞として大阪で創刊。21年7月、東京のめざまし新聞と合併し、東京朝日新聞としたのにともない翌22年1月、大阪朝日新聞と改題。昭和15年(1940)1月、東京朝日新聞と題号を統一し朝日新聞となる。
国民新聞=明治23年(1890)2月、東京で創刊。昭和17年10月、都新聞に合併し、東京新聞となる。
時事新聞=明治15年(1882)2月、東京で創刊。昭和11年12月、東京日日新聞に合併。
新聞雑誌=明治4年5月、東京で創刊。明治8年1月、あけぼの新聞、同じく6月東京曙新聞、明治15年3月、東洋新聞とそれぞれ改題、明治15年12月廃刊
中外物価新報=明治9年(1876)12月、東京で創刊。明治22年2月、中外商業新報となり、昭和17年11月、日本産業経済と改題、昭和21年3月、日本経済新聞と改める。
朝野新聞=明治5年(1872)11月、公文通誌として東京で創刊。明治7年10月、公文通誌から朝野新聞と改める。明治26年11月廃刊。
東京日日新聞=明治5年(1872)2月、東京で創刊。明治44年3月、大阪毎日新聞と合同、昭和18年1月、大阪毎日新聞と題号を統一し
毎日新聞となる。
郵便報知新聞=明治5年(1872)6月、東京で創刊。明治27年12月、報知新聞と改題、、昭和17年8月、読売新聞と合併し読売報知新聞と改題。
読売新聞=明治7年(1874)11月、東京で創刊。昭和17年8月、報知新聞と合併し読売新聞から読売報知と改題、昭和21年5月、読売新聞と旧名に戻った。おもしろ雑学事典 著 相沢正夫 発行 毎日新聞社

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