静岡県をお茶の名産地にした川越人足!


 
今朝テレビでお茶の焙煎をやっていた、福岡の八女茶(玉露)である
 
ブログでも何度かお茶に絡む情報を調べて流した。
 
が、産地については触れた記憶がない、日本の緑茶は北は秋田から南は
 
沖縄まで広範囲で栽培されているが、やはり、お茶と言えば静岡県では
 
ないでしょうか?。

 



 
このあたりを探ってみたいと思います。
 
静岡県のお茶のはじまりは、どうなんでしょう
 
1244年、聖一国師(しょういちこくし)が、中国よりお茶の種子を持ち
 
帰り、足久保に植えたという言い伝えがあります。
 
さらに、「駿河路や花たちばなも茶のにほい」と詠んだ松尾芭蕉の句か
 
らも、古くからのお茶の産地であったことがうかが
 
えます。
 
 
生産量は
 
1883年には全国の14%足らずだった生産量が、現在では全国の約4割を
 
生産する大産地になっています。

 
この、お茶栽培の発展のキッカケは「越すに越されぬ大井川」がもとに
 
なっている、と言ったら奇異な感じがするでしょうか?
 
この大井川が「越すに越されぬ・・」と歌われたゆえんは、徳川幕府が、
 
江戸防衛のため、街道筋の大きな川には橋を架けなかったことは周知の
 
事実でしょう。

 

錦絵「東海道川尽 大井川の図」


享保年間の記録を見ると、大井川は川幅が800間(約1456m)で、
 
両側の金谷宿と島田宿には川会所があり、川越に従事するものは川越人
 
足、雑役夫併せて800人ほどいたと書かれています。
 
 
 
大井川では、川越人足の脇の下よりも水深が深くなると川止めとされ、川
 
の水が引くまで、どちらかの宿で待たなければならない。と、十辺舎一九
 
の「東海道中膝栗毛」に書かれている。

 



 
この事は旅をする人間にとっては難儀なことであった。
 
また、川越人足の中にはタチの良くない者もおり、この川越は江戸時代の
 
旅の泣きどころとなっていました。
 
 
渡し船の登場
 
この大井川の川越制度も、明治の新時代になると改められ、明治4年には
 
人足による川越が廃止され、渡し船が登場します。
 
大井川に渡し船が登場すると、失業するのは800人からの川越人足たち
 
です。
 
この人たちは、徳川藩士などによる牧之原台地開墾もあり、ほとんどが
 
お茶の栽培に転職しました。

 

つまり、ここに静岡県のお茶産業の発展の基ができあがったわけです。